2015-05-22から1日間の記事一覧

宮本輝「道頓堀川」

三本足の犬が、通行人の足元を縫って歩いてきた。耳の垂れた、目も鼻も薄茶色の痩せた赤犬だった。/まだ人通りもまばらな戎橋を南から北へと渡りきると、犬は歩を停めてうしろを振り返った。

宮本輝「螢川」

銀蔵爺さんの引く荷車が、雪見橋を渡って八人町への道に消えていった。/雪は朝方やみ、確かに純白の光彩が街全体に敷きつめられた筈なのに、富山の街は、鈍い燻銀(いぶしぎん)の光にくるまれて暗く煙っている。

宮本輝「泥の河」

堂島川と土佐堀川がひとつになり、安治川(あじかわ)と名を変えて大阪湾の一角に注ぎ込んでいく。その川と川がまじわる所に三つの橋が架かっていた。昭和橋と端建蔵橋(はたてくらばし)、それに船津橋である。/藁や板きれや腐った果実をうかべてゆるやかに流…

村上龍「コインロッカー・ベイビーズ」

女は赤ん坊の腹を押しそのすぐ下の性器を口に含んだ。いつも吸っているアメリカ製の薄荷入り煙草より細くて生魚の味がした。泣き出さないかどうか見ていたが、手足を動かす気配すらないので赤ん坊の顔に貼り付けていた薄いビニールを剥がした。段ボール箱の…

村上龍「限りなく透明に近いブルー」

飛行機の音ではなかった。耳の後ろ側を飛んでいた虫の羽音だった。蠅よりも小さな虫は、目の前をしばらく旋回して暗い部屋の隅へと見えなくなった。 天井の電球を反射している白くて丸いテーブルにガラス製の灰皿がある。フィルターに口紅のついた細長い煙草…

池波正太郎「毒」

その日。そのとき……。 長谷川平蔵は、金竜山・浅草寺の仁王門を通りぬけようとしていた。 師走(陰暦十二月)中旬の、或日の昼下りのことで、風も絶えた暖かい日和の所為(せい)もあり、観世音菩薩を本尊とする名刹・浅草寺境内の雑踏ぶりは、久しぶりに浅草…