島尾敏雄「死の棘」

 私たちはその晩からかやをつるのをやめた。どうしてか蚊がいなくなった。妻もぼくも三晩も眠っていない。そんなことが可能かどうかわからない。少しは気がつかずに眠ったのかもしれないが眠った記憶はない。十一月には家を出て十二月には自殺する。それがあなたの運命だったと妻はへんな確信を持っている。「あなたは必ずそうなりました」と妻は言う。でもそれよりいくらか早く、審きは夏の日の終わりにやってきた。
 その日、昼さがりに外泊から家に帰ってきたら、くさって倒れそうになっているけんにんじ垣の木戸には鍵がかかっていた。胸がさわぎ、となりの金子の木戸からそっと自分の家の狭い庭にまわって、玄関や廊下をゆさぶってみたが鍵ははずれそうでない。仕事部屋にあてた四畳半のガラス窓は、となりとの境の棒くいを立てただけの垣のすぐそばで、金子や青木のほうからまる見えだが、ガラスの破れ目に目をあててなかを見ると、机の上にインキ壺がひっくりかえったままになっている。