永井荷風「濹東綺譚」

 「ぢや、一時間ときめよう。」
 「すみませんね。ほんとうに。」
 「その代り。」と差出してゐる手を取つて引寄せ、耳元に囁くと、
 「知らないわよ。」と女は目を見張つて睨返し、「馬鹿。」と言ひさまわたくしの肩を撲つた。


 為永春水の小説を読んだ人は、作者の叙事のところ〴〵に自家弁護の文を挟んでゐることを知つてゐるであらう。初恋の娘が恥しさを忘れて思ふ男に寄添ふやうな情景を書いた時には、その後で、読者はこの娘がこの場合の様子や言葉使のみを見て、淫奔娘(いたづらもの)だと断定してはならない。深窓の女も意中を打明ける場合には芸者も及ばぬ艶めかしい様子になることがある。また、既に里馴れた遊女が偶然幼馴染の男にめぐり会ふところを写した時には、商売人(くろうと)でも斯う云ふ時には娘のやうにもぢ/\するもので、これはこの道の経験に富んだ人達の皆承知してゐるところで、作者の観察の至らないわけではないのだから、そのつもりでお読みなさいと云ふやうな事が書添へられてゐる。
 わたくしは春水に倣つて、こゝに剰語を加へる。読者は初めて路傍で逢つた此女が、わたくしを遇する態度の馴々し過るのを怪しむかも知れない。然しこれは実地の遭遇を潤色せずに、そのまゝ記述したのに過ぎない。何の作意も無いのである。