井伏鱒二「山椒魚」

 山椒魚は悲しんだ。
 彼は彼の棲家である岩屋から外に出てみようとしたのであるが、頭が出口につかえて外に出ることができなかつたのである。今は最早、彼にとつては永遠の棲家である岩屋は、出入口のところがそんなに狭かつた。そして、ほの暗かつた。強ひて出て行かうとこゝろみると、彼の頭は出入口を塞ぐコロツプの栓となるにすぎなくて、それはまる二年の間に彼の体が発育した証拠にこそはなつたが、彼を狼狽させ且つ悲しますには十分であつたのだ。
 「何たる失策であることか!」
 彼は岩屋のなかを許されるかぎり広く泳ぎまはつてみようとした。人々は思ひぞ屈した場合、部屋のなかを屢々こんな具合に歩きまはるものである。けれど山椒魚の棲家は、泳ぎまはるべくあまりに広くなかつた。彼は体を前後左右に動かすことができたゞけである。その結果、岩屋の壁は水あかにまみれて滑かに感触されたので、彼は彼自身の背中や尻尾や腹に、つひに苔が生えてしまつたと信じた。彼は深い嘆息をもらしたが、恰も一つの決心がついたかのごとく呟いた。
 「いよいよ出られないといふならば、俺にも相当な考へがあるんだ」
 しかし彼に何一つとしてうまい考へがある道理はなかつたのである。