葛西善蔵「弱者」

 裏のお上さんは、いゝお上さんだ。大工さんらしい。子供も、四五人もあるらしい。赤ン坊も居る。赤ン坊も、自家の百日位のと同じらしい。泣声がよく似てゐる。お乳が足りないのか、身体が弱いのか知らないが、牛乳も用ひてゐるらしい。
 主人公は、大工だ。二三人の職人を使つて居るらしく思はれる。が、此頃の景気ではあり、気のえゝ親方ならば、充分とゆくわけがない。親方としての、困り方をせねばならない。
 だいたい、さう云つた感じなんだ。それでも、自分は世田ヶ谷三宿、偶然乍らにも、さう云ふ裏を持つたと云ふことは、まだしも仕合せである。裏隣りは、大工さんだが、直ぐ左り隣り、窓障子を隔てゝ、活動へ出ると云ふ薩摩琵琶師の家だ。前通り周囲のことは、最早云ひ度くない。此頃は自分も、話を、暗い方に向けることを好まない。ものにぶつかつて、ものに衝き当つて、其を抜けて行うと云ふ人間に、普通に云ふ意味の暗さがある筈がない。

   ※太字は出典では傍点