水上滝太郎「山の手の子」

 お屋敷の子と生れた悲哀(かなしみ)を、沁み々々(〴〵)と知り初(そ)めたのは何時(いつ)からであつたらう。
 一日(ひとひ)一日と限り無き喜悦(よろこび)に満ちた世界に近付いて行くのだと、未来を待つた少年の若々しい心も、時の進行(すゝみ)に連れて何時かしら、何気なく過ぎて来た帰らぬ昨日(きのふ)に、身も魂も投出して追憶の甘き愁に耽り度いと云ふ果敢(はか)無い慰藉(なぐさめ)を弄ぶやうになつてから、私は私に何時も斯う尋ねるのであつた。
 山の手の高台もやがて尽きようと云ふだらだら坂を丁度登り切つた角屋敷の黒門の中に生れた私は、幼(いとけな)き日の自分を其黒門と切離して想起(おもひおこ)すことは出来ない。