島崎藤村「家」

 橋本の家の台所では昼飯の支度に忙しかつた。平素ですら男の奉公人だけでも、大番頭から小僧まで入れて、都合六人のものが口を預けて居る。そこへ東京からの客がある。家族を合せると、十三人の食ふ物は作らねばならぬ。三度々々斯の支度をするのは、主婦のお種に取つて、一仕事であつた。とはいへ、斯ういふ生活に慣れて来たお種は、娘や下婢を相手にして、まめ/\しく働いた。
 炉辺は広かつた。其一部分は艶々と光る戸棚や、清潔な板の間で、流許で用意したものは直にそれを炉の方へ運ぶことが出来た。暗い屋根裏からは、煤けた竹筒の自在鍵が釣るしてあつて、その下で夏でも火が燃えた。斯の大きな、古風な、どこか厳しい屋造の内へ静かな光線を導くものは、高い明窓で、その小障子の開いた所から青く透き通るやうな空が見える。
 『カルサン』といふ労働の袴を着けた百姓が、裏の井戸から冷い水を汲んで、流許へ担いで来た。お種は斯の隠居にも食はせることを忘れては居なかつた。