泉鏡花「歌行燈」

「やあ、大事な処、倒れるな。」
 と源三郎すつと座を立ち、よろめく三重(みへ)の背(せな)を支へた、老(おい)の腕(かひな)に女浪の袖、此の後見(こうけん)の大磐石(だいばんじやく)に、みるの緑の黒髪かけて、颯(さつ)と翳(かざ)すや舞扇は、銀地に、其の、雲も恋人の影も立添(たちそ)ふ、光を放つて、灯(ともしび)を白(しら)めて舞ふのである。
 舞ひも舞うた、謡ひも謡ふ。はた雪叟(せつそう)が自得の秘曲に、桑名の海も、トトと大鼓(おほかは)の拍子を添へ、川浪(かはなみ)近くタタと鳴つて、太鼓の響(ひゞき)に汀(みぎは)を打てば、多度山(たどさん)の霜の頂(いたゞき)、月の御在所ヶ嶽(たけ)の影、鎌ヶ嶽、冠ヶ嶽も冠着て、客座に並ぶ気勢(けはひ)あり。
 小夜更けぬ。町凍(い)てぬ。何処(どこ)としもなく虚空(おほぞら)に笛の聞えた時、恩地喜多八は唯一人、湊屋の軒の蔭に、姿蒼く、影を濃く立つて謡ふと、月が棟(むね)高く廂(ひさし)を照らして、渠(かれ)の面(おもて)に、扇のやうな光を投げた。舞の扇と、うら表に、其処でぴたりと合ふのである。