夏目漱石「道草」

 健三が遠い所から帰つて来て駒込の奥に世帯を持つたのは東京を出てから何年目になるだらう。彼は故郷の土を踏む珍らしさのうちに一種の淋し味さへ感じた。
 彼の身体には新らしく後(あと)に見捨てた遠い国の臭(にほひ)がまだ付着してゐた。彼はそれを忌んだ。一日も早く其臭を振ひ落さなければならないと思つた。さうして其臭のうちに潜んでゐる彼の誇りと満足には却つて気が付かなかつた。
 彼は斯うした気分を有(も)つた人に有勝な落付のない態度で、千駄木から追分へ出る通りを日に二辺づゝ規則のやうに徃来した。
 ある日小雨が降つた。其時彼は外套も雨具も着けずに、たゞ傘を差した丈で、何時もの通りを本郷の方へ例刻に歩いて行つた。すると車屋の少しさきで思ひ懸けない人にはたりと出会つた。其人は根津権現の裏門の坂を上つて、彼と反対に北へ向いて歩いて来たものと見えて、健三が行手を何気なく眺めた時、十間位先から既に彼の視線に入つたのである。さうして思はず彼の眼をわきへ外させたのである。
 彼は知らん顔をして其人の傍を通り抜けやうとした。けれども彼にはもう一遍此男の眼鼻立を確める必要があつた。それで御互が二三間の距離に近づいた頃又眸(ひとみ)を其人の方角に向けた。すると先方ではもう疾(と)くに彼の姿を凝(ぢつ)と見詰めてゐた。