寺田寅彦「団栗」

 もう何年前になるか思い出せぬが日は覚えている。暮もおし詰った二十六日の晩、妻は下女を連れて下谷摩利支天の縁日へ出掛けた。十時過ぎに帰って来て、袂からおみやげの金鍔と焼栗を出して余のノートを読んでいる机の隅へそっとのせて、便所へはいったがやがて出て来て蒼い顔をして机の側へ坐ると同時に急に咳をして血を吐いた。驚いたのは当人ばかりではない、その時余の顔に全く血の気が無くなったのを見て、いっそう気を落したとこれはあとで話した。