徳冨蘆花「不如帰」

 上州伊香保千明(ちぎら)の三階の障子開きて、夕景色を眺むる婦人。年は十八九。品好き丸髷(まげ)に結いて、草色の紐つけし小紋縮緬の被布を着たり。
 色白の細面、眉の間やゝ蹙(せま)りて、頬のあたりの肉寒げなるが、疵と云へば疵なれど、瘠形のすらりと静淑(しほ)らしき人品(ひとがら)。此れや北風(ほくふう)に一輪勁(つよ)きを誇る梅花にあらず、また霞の春に胡蝶と化けて飛ぶ桜の花にもあらで、夏の夕闇にほのかに匂ふ月見草、と品定めしつ可き婦人なり。
 春の日脚の西に傾きて、遠くは日光、足尾、越後境の山々、近くは小野子、子持、赤城の峯々、入日を浴びて花やかに夕栄すれば、つい下の榎離れて啞々と飛び行く烏の声までも金色に聞ふる時、雲二片蓬々然(ふら/\)と赤城の背より浮み出でたり。三階の婦人は、坐(そぞ)ろに其行衛を膽視(うちまも)りぬ。