尾崎紅葉「金色夜叉」

 未(ま)だ宵ながら松立てる門(かど)は一様に鎖籠(さしこ)めて、真直(ますぐ)に長く東より西に横(よこた)はれる大道(だいだう)は掃きけるやうに物の影を留めず、いと寂しくも往来(ゆきゝ)の絶えたるに、例ならず繁き車輪(くるま)の輾(きしり)は、或(ある)は忙(せは)しかりし、或は飲過ぎし年賀の帰来(かへり)なるべく、疎(まばら)に寄(よ)する獅子太鼓の遠響(とほひゞき)は、はや今日(けふ)に尽きぬる三箇日を惜むが如く、其の哀切(あはれさ)に小(ちひさ)き膓(はらわた)は断(たゝ)れぬべし。
 元日快晴、二日快晴、三日快晴と誌(しる)されたる日記を瀆(けが)して、この黄昏より凩は戦出(そよぎい)でぬ。今は「風吹くな、なあ吹くな」と優しき声の宥むる者無きより、憤(いかり)をも増したるやうに飾竹(かざりだけ)を吹靡(ふきなび)けつゝ、乾(から)びたる葉を粗(はした)なげに鳴して、吼えては走行(はしりゆ)き、狂ひては引返し、揉みに揉んで独り散々に騒げり。