中野好夫「言葉の魔術」

 言語への過信が近代人最大の迷妄の一つではないかと思う。人間の言葉というものが、そんなに完全なものとでも思ったら、とんでもないこれは大間違い。言語の買い被りくらい危険なものはない。言葉とはおよそ不完全な道具なのである。結局どちらに転んだにしたところで、大して変りないようなことを言い合っている間こそ、言葉も一応便利、重宝なものだが、一度ギリギリ一ぱいの重大な事柄でも伝えようということになると、いかに言葉というものが不完全で、むしろ誤解ばかり生み出すものであるか、身にしみてわかるはずである。
 〔中略〕
 いってみれば言語とは、ひどく粗雑な出来合の計器類に似ている。たとえばぼくらが真実言いあらわしたいと思うことは三・一四一五であったり、三九・六四二八であったり、ひどい場合は永久に完結しないあの循環小数のような、ひどくデリケートなものであるのに、かんじんのそれを表出する言語と呼ばれる計器は、一、三、五、七といったような整数倍の重錘(じゅうすい)〔分銅〕しかもたぬ、きわめて粗っぽい不出来の計器なのである。なにしろこうした粗雑な計器で、前述のようなデリケートな内容をあらわそうというのだから、いきおい猛烈な切捨て、切上げが行われるのはやむをえぬ。三・一四一五は、いきおいよく三に切捨てるし、三九・六四二八は、エイ、面倒なとばかり四〇に切上げるといった按排。結局ぼくらの日常使っている言語表現というのは、厳密にいえばすべて近似値にしかすぎぬのである。もどかしかったり、誤解が生れるのは、当然といわねばならぬ。
 ところが面白いもので、この言葉の不完全さ、粗雑さということこそ、一面ではまた非常に大きな言語の効用として役立っているのである。いや、単に面白いだけなら特に取立てていうほどのこともないが、実はこの言葉の消極的性格が、ある特定の目的のために巧みに利用されると、これはきわめて危険な、ぼくらとして警戒の上にも警戒を必要とするような効果を発揮する。いわゆる言語の魔術とか、言葉の呪術的効果とかといった名前で呼ばれるものが、それである。
 ところで、そうした言葉の呪術性が、もっとも大きな効果を発揮するのは、それが一定の標語化され、スローガン化された場合である。説明するまでもないが、標語とか、スローガンとかいうものは、できるだけ簡潔で、わかりよくて、しかもさらに大事なことは、決して厳密にその内容が規定されていない、いわば中身は必要に応じて何にでもすりかえうる紙袋のような概念表現をもって最上とするらしい。即ち、そうした標語なり、スローガンを、来る日も来る日も朝から晩まで、根気よく相手の意識の中に流しこんでいると、相手の心の中には、最初は影も形もなかったような心的状態でさえが、いつのまにか注文通りにでき上ってしまう。そこが悪質な、それだけにおそるべき、人間心理の研究者である煽動政治家などの巧みに利用するつけ目であり、それには言語の不完全さ、粗雑な計器であるということが、むしろ必須要件でさえあるのだ。なぜならば、スローガンとか標語とかいうものは、相手をして考えさせるのではなくて、思考の中断を起させる、いいかえれば、思い切った思考の切捨てや切上げを要求するものであるからである。スローガン、標語のもつ危険さについて、さすがにドイツの旧軍人フォン・ゼークトは実に鋭く指摘している。
「自己の頭脳をもって思考しえぬ人々にとっては、標語は必要欠くべからざるものである。たとえば同じく平和主義という名を冠しても、経験あり責任を自覚せる人士が当然抱くところの平和愛好の念から、いかなる犠牲を払うも平和を求めんとする卑屈な屈従に至るまで、この概念の包括するところは、すこぶる広範である。即ち、平和主義が明白な意志を欠くところの標語となるゆえんである。……標語はまことに命取りである。これに対する護符は、ただ一つ――即ち、『明らかに考えること』である」と。
 いいかえれば、標語の狙いは思考を麻痺させ、中絶させるところの呪術なのである。果して厳密に三・一四一五であったか、三・一五一六であったかなどと、首をひねり出されては困るのだ。そこで大ざっぱに三だ、三だと、そこはわかりよい切捨てを、朝から晩まで耳元に放送してやっていると、ついいつのまにか当の相手も、いっそ面倒だ、三にしておけ、といった気持になってくれれば、それでもう大成功なのである。