石川淳「模倣の効用」

 泥棒の縁語でいえば、文学上にヒョーセツ剽窃というやつがある。ヒョーセツについては、つとに大むかしにアナトール・フランスが卓説を述べているね。今さら先人の卓説をヒョーセツするにもおよばないが、アナトール・フランスの忠告にしたがえば、蟻が砂糖のかたまりをまるごと引張るように盗むな、蜜蜂が花から蜜を吸いとるように盗めという。たとえばモリエール以前にもドン・ジュアンドン・ファン伝説に材を取って仕組んだものはいろいろあったが、モリエールの「ドン・ジュアン」に至ってドン・ジュアン精神を一手に絞りあげたような形式を現前している。「守銭奴」もまたすべての守銭奴像を収斂しているね。こういうものをヒョーセツとはいわない。他人の詩句なんぞをそっくり盗むやつは、こいつ完全にまるごと引張るのだから、どうしたっていけませんよ。唐の詩人にヒョーセツの故事はあるが、それは弁疏(べんそ)〔言い訳〕にならない。ヒョーセツが悪徳だというのは、じつにこれ愚劣だからだよ。しかし芸術上の方法についていえば、厳密には方法を盗むということはまあできない相談だね。作者みずから意識しないような方法を、他人が意識的に盗むとは、どういうことか。いや、どういうことでもない、単に無意味だよ。芸術上の方法はこれを泥棒でいっぱいの市場のまん中に投げ出しておいても、絶対に盗まれるきづかいは無い。ひとが見たら蛙になるさ。これでは盗むどころか真似もできないだろう。方法とは無意識の発明に係るものなのだから、一子相伝の奥儀なんぞというものは、芸術には絶対にありえない。芸の秘伝とか称するやつ、高く買っても、その関係するところはたぶん技術上の操作の限界だろう。これはもともと秘すべきものではなく、よろしく公開すべきものだよ。ところで、技術一般について、鍛錬上後人が先人を模倣するということがある。この模倣は泥棒かね。とんでもない。悪徳でもなし、愚劣でもなし、これは技術鍛錬にはどうしても欠かせない操作だよ。しかるに、ひと真似はけしからん、独創を示せという声がかかる。ちょっと待って下さい。はなしはまだそこまで進行しない。じつは、技術鍛錬に関するかぎり、ひと真似はけしからんというやつこそ、どうもけしからん悪思想だよ。技術上の操作に道徳的意味を塗りつけようという悪だくみらしい。悪思想ほど道徳を好むやつはないね。精神上の泥棒はどうやらこの悪思想の中に潜入しているのかも知れない。