内田樹『街場の現代思想』

 短期的には合理的だが、長期的には合理的でないふるまいというものがある。あるいは少数の人間だけが行う限り合理的だが、一定数以上が同調すると合理的ではないふるまいというものがある。
 例えば、「他人の生命財産を自由に簒奪してもよい」というルールは、力のあるものにとって短期的には合理的であるが、それが長期にわたって継続すると、最終的には「最強のひとり」にすべての富が集積して、彼以外の全員が死ぬか奴隷になるかして共同体は崩壊する。
 子どもを育てることは女性の社会的活動にハンディを負わせる。だから、「私は子どもを産まない」という女性は他の女性よりも高い賃金、高い地位を得る可能性が高い。しかし、女性全員が社会的アチーブメントを求めて子どもを産むのを止めると、「社会」がなくなるので、賃金も地位も空語となる。
 ある戦略が「長期的に継続しても合理的かどうか」「一定数以上の個体が採択した場合にも合理的かどうか」については、かならず損益分岐点が存在する。しかし、それを見切れるのは卓越した知性に限られており、私たちのような凡人にはなかなかむずかしい。
 だから、共同体の合理性を配慮して、「長期的に継続した場合」や「一定数以上の個体が採択した場合」にはベネフィット〔利益〕よりもリスクが高くなるような生存戦略についてはこれをまとめて「非」としたのである。
 だから倫理が「非」とするものの中には、「短期的にだけ行われた場合」や「一定数以下の個体しか行わない場合」には、ベネフィットの方が多いような行動も含まれている。
 それゆえ、倫理に対する異議申し立てのほとんどすべては「短期的に見た場合」「自分だけがそれをした場合」には合理性にかなっているから、という論拠に基づいてなされることになる。
「人を殺してどうして悪いんですか」
 と訊ねる子どもは、誰かが彼ののど元にナイフを当て、「ねえ、人を殺してどうして悪いんですか」とまわりの人間に訊ねているときにも、自分もその問いに唱和できるかどうかを想像していない。
 ユダヤ人を迫害したドイツ人たちは、「ドイツ人だから」という理由で、ひざまずいて通りを歯ブラシで磨かされている自分の姿を想像していない。
 倫理的でない人間というのは、「全員が自分みたいな人間ばかりになった社会」の風景を想像できない人間のことである。