林達夫「文章について」

 一般に自然的文体として嘆賞されている文章は、殆ど例外なく最も苦心努力された文章統制のたまものである。或る種のわざとらしい不自然な文章が努力と工夫の跡を匂わしているからと言って、そこからいきなり、だから文章上の苦心と工夫が無用であり邪道であると考えるものがあるなら、それは自然的文章の正体を見誤っていると言わなければならぬ。自然的文章とは苦心と工夫なしにある文章のことではなくして、苦心と工夫のあとの見えない文章のことであろう。名舞踏家が最も自然的な動勢とステップとを以て踊り、名歌手が最も自然的な発声でうたい、名優が最も自然的な所作で演技し得るためには、どんなに莫大な人為的努力が払われていることであろう。そのように文章技術においても、「自然らしさ」は、コンジアックの言ったように「習性の状態になった技能」のことであろう。「上手に作られたもので早く作られたものはない」という西洋の諺がある。作家が永年やってきた自分の文章修業、或(あるい)はもっと詳しく言うと、文章修業の悪しき方向や思わしくない結果を省みて、その殻から脱け出ようとするとき、彼の念頭に浮ぶのは、いつもきまって文章的「自然に還れ」のスローガンである。日常、人が話す通りに書け、というのもつまりはこのナチュリスムの素朴的表現形態の一種なのであろう。しかし何の註釈も告解もなく、いきなりこの言葉を初心者の前に投げ出すならば、それは人を誤らすだけの効果しかないであろう。人はそれを苦心の必要と尊重の教訓として受取るよりも、苦心の不必要と軽蔑のそれとして受取るであろう。若しも文章が現実の日常語の様態をそのまま模写するだけでよいなら、それは文章の自殺であって、それでは文章的行為を一種の速記者的自働器械の地位に墜(おと)しめるものである。それに、典型的と見做されているような話される言葉は、その実書かれた言葉のうちにその規範をもっているということも見落されてはならない。かくて浄化と統制、つまり人為のないところに文章はないのだ。況んや自然的文章をや。