九鬼周造「日本的性格」『人間と実存』より

 日本の道徳の理想にはおのづからな自然といふことが大きい意味を有(も)つている。殊更らしいことを嫌つておのづからなところを尊ぶのである。自然なところまで行かなければ道徳が完成したとは見られない。その点が西洋とはかなり違つてゐる。いつたい西洋の観念形態では自然と自由とは屢々(しばしば)対立して考へられてゐる。それに反して日本の実践体験では自然と自由とが融合相即して会得される傾向がある。自然におのづから迸り出るものが自由である。自由とは窮屈なさかしらの結果として生ずるものではない。天地の心のままにおのづから出て来たものが自由である。自由の「自」は自然の「自」と同じ「自」である。「みづから」の「身」も「おのづから」の「己(おのれ)」もともに自己としての自然である。自由と自然とが峻別されず、道徳の領野が生の地平と理念的に同一視されるのが日本の道徳の特色である。更にまた日本の国民道徳が忠と孝とを根幹としてゐることもそれがおのづからな道であるからにほかならぬ。神を祭る「祭り事」と人民を治める「政」とが天皇において一つになつてゐることもおのづからな自然であり、一家の奉仕を受ける主体と一家の統御を司る主体とが親において一つになつてゐることもおのづからな自然である。同じことが日本の藝術の理想にもあらはれてゐる。和歌にしても俳句にしても、絵画、建築にしても、茶道、花道から造庭術に至るまで、日本の藝術では自然と藝術との一致融合といふことが目標となつてゐる。日本の生花と西洋の生花とを比較したり、日本の庭と西洋の庭とを比較するときに、この特色が著しく目立つてゐることは今更いふまでもない。日本の道徳にあつても藝術にあつても道とは天地に随(したが)つた神ながらのおのづからな道である。なほ、自然といふことは自然の情といふ意味をも取つて来るから、日本的性格の有つてゐる自然といふ契機を捉へることと、日本文化が情的であるといふ見解との間にも深い関聯が看取されるのである。