阿部次郎『三太郎の日記』

 我らは何ゆえに「おのれ」ならぬものに奉仕せざるべからざるか。この世にはかぎりなき享楽の対象がある。自然も美しく、女も美しく、酒もまた美しい。しかるに我らは何ゆえにこれらのものの甘美なる享楽を捨てて――時にはいっさいの享楽を可能にする自己の肉体の生命を犠牲にしてさえ、「おのれ」ならぬものに奉仕せざるべからざるか。
 答えて曰く、我らの本質を真正に生かすために。もし奉仕とは我らの本質を真正に生かすものでないならば――もし奉仕とはあらゆる意味において我らの自我を殺すものにすぎないならば、我らはもとより何物に対しても奉仕の義務を負うことができない。この意味における奉仕は、ただ外から強制することを得るのみである。この場合において我らの感ずる奉仕の義務は、ただ屠(ほふ)らるるものの余儀なき諦め、首絞らるる者が自己の悲痛を紛らすための自欺にすぎない。我らはただ屠らるる牛のごとく、悲鳴をあげつつ奉仕する外に途(みち)はないであろう。しかし我らのここに考察せんとするところは、かくのごとき強制的奉仕ではないのである。我らが心から感ずる奉仕の義務、我らが悦びをもって遂行する奉仕の行為――これらいっさいの内面的奉仕は、ただそれが我らの自我の本質を生かすときにおいてのみ始めて可能である。「おのれ」を捨てることがかえって自我の本質を肯定する所以であるという信念の上に立たざるかぎり、――もしくは奉仕することによって自我の本質が肯定さるる悦びを知らず識らず自己の内面に感ぜざるかぎり、いかなる道徳の教えも、我らに奉仕の義務を是認させることができない。

   ※太字は出典では傍点