福田恆存「伝統にたいする心構」

 現代の文明における最大の弱点は何かと言へば、人々の間にすべてを労せずして手に入れようといふ風潮を生じたことです。人々は労せずして手に入るものにしか目につけないし、興味ももたない。さういふものだけが価値あるものと考へ、またさうすることこそ価値と心得て、そこに文明の誇りを感じてをります。この文明の原理は結局のところ「最小の労力をもつて最大の効果ををさめる」といふ経済学の、あるいは科学技術の原理に支配された考へ方であつて、それが生き方としての文化を蝕んでゐるのであります。
  〔中略〕
 それにしても、私たちはなぜ努めて歴史の中に身を置かなければならないのか。なぜ労して古典を生きなければならないのか。第一に、これは言ふまでもないことですが、それ以外に私たち現代人の生き方はないからです。現代には現代の生き方があるといふのは浅薄な考へです。生き方といふものはつねに歴史と習慣のうちにしかない。それを否定してしまへば、ただ混乱あるのみです。現代そのものからは、生き方は出て来ません。なぜなら、未来はもとより、現在もまた存在してゐないからです。現実に存在してゐるのはつねに過去だけです。私たちの生き方や行為の基準は必ず過去からやつてくる。現在は基準にはならない。現在を基準にするといふのは、基準をもたないといふのと同じ意味です。現代的意義といふのは、それ自身矛盾した無意味な言葉です。現代に意義を与へるものはあくまで過去であつて、現代が現代に意義を与へるなどといふことは論理的にも成りたちません。たとへそれが可能だとしても、それはお手盛りの意義でしかありますまい。
 第二に、過去と絶縁してしまつた現在は、未来からも絶縁されざるをえません。つまり、それは未来に向つて生産的でありえないのです。過去にたいして責任をとりえぬ現在は、みづからを歴史の中に位置せしめえず、未来への歴史を作りえないからです。私たちは同時代人にたいしてのみならず、過去の人たちにたいしても責任をもたねばならぬのです。私たちは同時代人ばかりでなく、過去の人たちをも生しつつ、自分を主張しなければならないのです。過去の人たちは見えないから、また文句を言はないからと言つて、勝手にふるまうことは許されますまい。それは過去と現在との同時存在を感じえぬ想像力の欠如といふほかはありません。