佐藤春夫「東洋人の詩感」

 いつたい西洋の詩人は、自然を見るにも常に擬人的にしか見られないし見る事をしない。ギリシャ神話だつて、自然の美しいところはにはニンフが住むでゐると考へて、初めて美を感ずる。或は美をいひ現はす為めにニンフが住むでゐるといふのか、ともかく自然と人間とを切り離しては考へられないらしい。いつも自然の上へ人間をおつかぶせてゐるやうな感じがする。
 ロバート・バーンズなぞと云へば、英国の詩人中でも最も自然を自然らしく――つまり人間をおつかぶせないで見る人として、珍らしいといふ事になつてゐるが、それだつてやはり自然に、又自然の中の小動物なぞに対して、人間にそそぐやうな深い愛情を持つてゐるといふ点がいいので、自然を只現象のままに見てその美感に打たれるといふやうな事はあまりないと思ふ。ウヲーズヲースなどもやつぱり哲学的思索を、自然の中からぬき出さずには自然の美をそのままでは見られなかつた。そこへ行くとわれわれ東洋人の詩感はよほど違ひはしないか。成程(なるほど)花を見て無情を感ずるといふやうな哲学的な見方も、多分にあるにはあるが、われわれの批評から見てさういふのには、かへつて傑作に乏しく、自然現象のまま歌つたのになかなかいいのがあるかと思ふ。たとへば
     わだつみの豊旗雲(とよはたぐも)に入日さし
     今宵の月夜あきらけくこそ
 といふなぞは、何の主観も哲学もなしに、然し立派に詩になつてゐると思ふ。支那の詩にしても王維や韋応物なぞの詩を初めとし純粋なる自然詩にその傑作が随分あると思ふ。(例は思ひつかないから、又今度にする)特別な人ばかりぢやない、どの詩人にでも相当にある。否むしろわれわれ東洋人が風流といふのは、人間そのものを自然物のやうに、自然の一断片として感ずる事に詩感を置いてゐるのではないかと思ふ。
     菜の花や月は東に日は西に
 これが東洋人の詩である。全く同じやうな事を、
     「払暁」
    月は彼方にある、暁は此方にある
    月よわが姉妹よ、暁よわが兄弟よ
    月よわが左手に、暁はわが右手に
    兄弟よ、お早う。姉妹よ、お休み。
 拙い訳だが、これが西洋人の詩だ。兄弟よ、姉妹よと呼びかけることが彼等の詩風で――僕に言はせると彼等の詩の病だと思ふ。身贔屓かも知れないが、僕は詩人としては東洋人の方が恵まれてゐるやうに考へてゐる――小説家としては全く反対の気持がするが。