本居宣長「からごころ」

 漢意(カラゴコロ)とは、漢国(からくに)のふりを好み、かの国をたふとぶのみをいふにあらず、大かた世の人の、万の事の善悪是非(ヨサアシサ)を論(あげつら)ひ、物の理(リ)をさだめいふたぐひ、すべてみな漢籍(カラブミ)の趣なるをいふ也、さるはからぶみをよみたる人のみ、然るにはあらず、書といふ物一つも見たることなき者までも、同じこと也、そもからぶみをよまぬ人は、さる心にはあるまじきわざなれども、何わざも漢国をよしとして、かれをまねぶ世のならひ、千年にもあまりぬれば、おのづからその意(ココロ)世中にゆきわたりて、人の心の底にそみつきて、つねと地となれる故に、我はからごころもたらずと思ひ、これはから意にあらず、当然(シカアルベキ)理(コトワリ)也と思ふことも、なほ漢意をはなれがたきならひぞかし、そもそも人の心は、皇国(みくに)も外(と)つ国も、ことなることなく、善悪是非(ヨサアシサ)に二つなければ、別(コト)に漢意といふこと、あるべくもあらずと思ふは、一わたりさることのやうなれど、然(しか)思ふもやがてからごころなれば、とにかくに此(この)意(こころ)は、のぞこりがたき物になむ有ける、人の心の、いづれの国もことなることなきは、本のまごころこそあれ、からぶみにいへるおもむきは、皆かの国人のこちたきさかしら心もて、いつはりかざりたる事のみ多ければ、真(マ)心にあらず、かれが是(ヨシ)とする事、実(まこと)の是(ヨキ)にはあらず、非(アシ)とすること、まことの非(アシキ)にあらざるたぐひもおほかれば、善悪是非(ヨサアシサ)に二つなしともいふべからず、又当然之理(シカアルベキコトワリ)とおもひとりたるすぢも、漢意の当然之理にこそあれ、実の当然之理にはあらざること多し、大かたこれらの事、古き書の趣をよくえて、漢意といふ物をさとりぬれば、おのづからいとよく分るるを、おしなべて世の人の心の地、みなから意あるがゆゑに、それをはなれて、さとることの、いとかたきぞかし、