南方熊楠「ロンドン書簡」

 電気が光を放ち、光が熱を与うるごときは、物ばかりのはたらきなり(物理学的)。今、心がその望欲をもて手をつかい物を動かし、火を焚いて体を煖むるごときより、石を築いて長城となし、木をけずりて大堂を建つるごときは、心界が物界と雑(まじわ)りて初めて生ずるはたらきなり。電気、光等の心なきものがするはたらきとは異なり、この心界が物界とまじわりて生ずる事(すなわち、手をもって紙をとり鼻をかむより、教えを立て人を利するに至るまで)という事にはそれぞれ因果のあることと知らる。その事の条理を知りたきことなり。仁者(にんじゃ)試みに手をにぎり合わせて右手をもって左手をついてみよ。左手がつかるる感覚よりいわば、右手は物にして左手は心なり。右手の感覚よりいわば、右手は心にして左手は物なり。洋人を始めて見たときは何やらわけ分からず。されど外邦に久しくおりて、たちまち日本人を見れば日本人もまたおかしなものに見ゆる。これを要するに、一の洋人も日本人も居る地にありて観察すれば何のところが異なるか何のところが同じきか等、一体の事の知らるるものなり。今の学者(科学者および欧州の哲学者の一大部分)、ただ箇々のこの心この物について論究するばかりなり。小生は何とぞ心と物とがまじわりて生ずる(人界の現象と見て可なり)によりて究め、心界と物界とはいかにして相異(あいこと)に、いかにして相同じきところあるかを知りたきなり。

   ※太字は出典では傍点