森鷗外「かのやうに」

 秀麿は語を続(つ)いだ。「まあ、かうだ。君がさつきから怪物々々と云つてゐる、その、かのやうにだがね。あれは決して怪物ではない。かのやうにがなくては、学問もなければ、芸術もない、宗教もない。人生のあらゆる価値のあるものは、かのやうにを中心にしてゐる。昔の人が人格のある単数の神や、複数の神の存在を信じて、その前に頭を屈(かが)めたやうに、僕はかのやうにの前に敬虔に頭を屈める。その尊敬の情は熱烈ではないが、澄み切つた、純潔な感情なのだ。道徳だつてさうだ。義務が事実として証拠立てられるものでないと云ふこと丈(だけ)分かつて、怪物扱ひ、幽霊扱ひにするイブセンの芝居なんぞを見る度に、僕は憤懣に堪へない。破壊は免(まぬか)るべからざる破壊かも知れない。併しその跡には果してなんにもないのか。手に取られない、微かなやうな外観のものではあるが、底にはかのやうにが儼乎(げんこ)として存立してゐる。人間は飽くまでも義務があるかのやうに行はなくてはならない。僕はさう行(おこな)つて行く積りだ。人間が猿から出来たと云ふのは、あれは事実問題で、事実として証明しようと掛かつてゐるのだから、ヒポテジスであつて、かのやうにではないが、進化の根本思想は矢張かのやうにだ。生類(せいるゐ)は進化するかのやうにしか考へられない。僕は人間の前途に光明を見て進んで行(ゆ)く。祖先の霊があるかのやうに背後(うしろ)を顧みて、祖先崇拝(そうはい)をして、義務があるかのやうに、徳義の道を踏んで、前途に光明を見て進んで行く。さうして見れば、僕は事実上極(ごく)蒙昧な、極従順な、山の中の百姓と、なんの択ぶ所もない。只(ただ)頭がぼんやりしてゐない丈だ。極頑固な、極篤実な、敬神家や道学先生と、なんの択ぶ所もない。只頭がごつごつしてゐない丈だ。ねえ、君、この位(くらゐ)安全な、危険でない思想はないぢやないか。神が事実でない。義務が事実でない。これはどうしても今日になつて認めずにはゐられないが、それを認めたのを手柄にして、神を瀆(けが)す。義務を蹂躙する。そこに危険は始て生じる。行為は勿論、思想まで、さう云ふ危険な事は十分撲滅しようとするが好(い)い。併しそんな奴の出て来たのを見て、天国を信ずる昔に戻さう、地球が動かずにゐて、太陽が巡回してゐると思ふ昔に戻さうとしたつて、それは不可能だ。さうするには大学も何も潰してしまつて、世間をくら闇にしなくてはならない。黔首(けんしゆ)を愚にしなくてはならない。それは不可能だ。どうしても、かのやうにを尊敬する、僕の立場より外に、立場はない。」