宇野浩二『蔵の中』

 そんな間柄ですから、先の私の願ひは破格で聞(きき)とどけられました。私は梅雨の明けた初夏の一日、小僧に案内されて質屋の倉の二階に上つて行きました。反古紙(ほごがみ)に包まれた着物の包(つつみ)が幾層かの棚に順序よく並べられてゐる中を、私は通り抜ける時、私はまだ学校を出たての勉強盛りの頃、母校の図書館の図書室に、教授の紹介で入つた時のことを思ひ出しました。あの時の嬉しさと似て又違つた、何となく胸の躍るやうな爽(さはやか)さを私は感じました。それから思ふと、倉の入口の道具類の置いてあるところ、即ちヴイオリンがまるで箒のやうに無暗にぶら下つてゐたり、柱時計が博物館のお面のやうに並んでゐたり、ピアノやオルガンが置いてあるかと思ふと、その向ふの隅の方には屑屋のやうに鍋や釜の類(るゐ)が転がつてゐる部屋を通る時は、可成りの不快さを感じました。
 私は妙な性分で、子供の時分から、物の臭(にほひ)が妙に色々と何彼(なにか)に依らず好きで、油煙(ゆえん)でも、石炭酸でも、畑の肥料の臭でも、さては塵埃(ごみ)の臭でも、それぞれの(例外は無論ありますが)臭がそれぞれに好きなのです。私たち小説家の仲間に近頃鼻紙の青鼻汁(あをばな)を嘗めて喜ぶ男なぞを書く人がありますので、こんなことを言ふとその真似でもするやうですが、これは私には本当なのですから仕方がありません。ところで、その反古紙の着物の包の棚の部屋に入ると、その包の反古紙や、その中の着物や、さてはその着物の中に挟まれてある樟脳、ナフタリン、それから部屋の中の塵埃などの臭が一緒になつて、それが私には何とも言へぬ物懐しい臭となつて鼻を打つのです。私は第一にそれが気に入りました。(勿論この臭を毎日嗅がされては堪りますまい。)第二に私が非常に満足を覚えたのは、私の入質(にふじち)した着物どもが、中には随分反古紙に包まれてゐる連中もあるにはありますが、その中の比較的上等のものが総て一つの箪笥を占領してゐたことです。私は男としては随分沢山の着物を持つてゐる方でせうが、それを悉(ことごと)く一緒に自分の手元に置いたことがなかつたことや、この年になる迄大抵(たいてい)下宿生活ばかりしてゐた関係などから、箪笥といふものを持つたことがなかつたのです。こんな風に言ふと、如何にも誇張した物の言ひ方をするやうですが私はそれを見た時、(今迄から、「あなたの物はみんな箪笥の中にちやんとしまつてあります、」斯(か)う店で番頭たちに聞かされてはゐましたが、半信半疑といふよりも、目のあたり見ないので斯う迄感じなかつたのでせう、)私の愛する着物どもが斯く迄優待されてゐるかと思つて、丁度親たちが養子にやつた息子、嫁にやつた娘が、それぞれ行先で豊かに暮してゐるのを見た時に覚えるに違ひない、それに似た満足を私は感じました。この私の感じ方が、決して私の大袈裟な言ひ廻しでないことは、今に色々とお話してゐるうちにお分りになります。
  〔中略〕
 私は半年(はんねん)振りで倉の二階の片隅の、懐しい箪笥の前に立ちました。身に着けてゐるものさへ、今は仮にこの質屋のものである私に、小僧は何の不安も抱く必要がありませんので、彼はすぐ私を残して下に下りて行きました。私はしかしそつと秘密の戸を開くやうに、その箪笥の第一の引出しを開けました。第一の引出しを閉めて第二を開け、第二を閉めて第三を開け……私は暫くの間ただ何のなす事もなくそんなことをくり返してゐました。ああ、その充たされた箪笥の重みのある引出しを開けてそして閉める時の気持、その引出しの中の着物の眺めは申すに及ばず、それを開け閉めする時の囁くやうな甘い音、それから丸くかたまつて押し出されて来る空気の肌触り、どうぞ私のこの言葉を決して誇張だなぞと思はずに聞いて下さい、誇張どころか、私には何とそれを形容する言葉もないので、苛立つ程なのです、例へば幸福とはどんなものだと聞かれて、即座に誰(たれ)も答へられるものではありませんが、私には少くともこの気持がそれの一つだと言ふことが出来ます。女がこの着物のために大切な貞操さへ売るといふことが私には十分のみ込めます。若しそれが間違ひなら(誰が確(たしか)にそれが間違ひであるとはつきり言えるでせう?)それは確に恕(じよ)すべき間違ひです。私のやうな者がこんな理窟を言つたとて、反対さへする人がないかも知れませぬが、例へばそれに反対する人があれば、彼はどんなに女が着物を愛するかといふことを本当に知らない人だと言へます。私は女は好きですが、愛するとは言へないと先にも申しました通り、心の中では随分軽蔑し切つてゐます。私のやうな者がこんな哲学者めいた、生意気なことを言ふとて、どうぞ笑はないで下さい、だけど、この事だけは、私は出来るならば、世界の女人(によにん)に代つて弁じたいと思ひます。私の考へでは、(私には夢にも警句を吐くつもりで言ふのではありませんが、)女は金のために男を捨てるものではありません、女はその代り着物のためならいつでも男を捨てます。許してやらねばなりません。