中勘助『銀の匙』

 そのあとから私は日陰者みたいにこっそり部屋へ帰って柱によりかかったまま弱りかえっていた。初対面の挨拶をするのがなにより難儀だ。そうしてなじみのない人のまえにかしこまってるつらさといえばなにか目にみえない縄で縛りつけられてるようで、しまいには眉毛のあひだがひきしめられて肩のへんが焼けつきそうに熱くなってくる。その人はむこうの離れにいるらしい。かねて話にきいていた姉様ならそんなにいやではないが、それにしてもどんなあんばいにしたらいいのかしら などととつおいつ思案してるとき縁側を静かな足音がちかづいてはたりと障子のそとでとまった。私が柱からはなれて机のまえにすわりなおすあいだに
「ごめんあそばせ」
とおちついた柔らかい声がして、その声があけたようにするすると障子があいた。
「まあ、まだあかりもさしあげませんで」
 ひとり言みたいにいうのがきこえて、長方形にくぎられたうす暗がりのなかに白い顔がくっきりと浮き彫りにされた。
「はじめまして。私は□□□の姉でございます。二三日お邪魔をさせていただきます」
「は」
 そういったなり罪の宣告をまってる私のまえへ皿にのせたにおいのたかい西洋菓子をしとやかにだして
「つまらないもので……。お口にあいますかどうか」
といった。そのときおごそかにつめたい彫像が急に美しい人になって心もちはにかむようにほほえんだが
「ただいまあかりを」
とまたもとの彫像になって暗がりのなかへ消えていった。
 私はほっと息をついた。そうしていかにもあわれだった自分を愧(は)じながらもその消えていった姿を思いだそうとしたけれど、夢のようでとりとめがない。それでもじっと目をつぶってるうちににわかに明るみへ出たときのようにだんだんはっきりとものの形が浮かんできた。大きな丸髷(まるまげ)に結っていた。まっ黒な髪だった。くっきりとした眉毛のしたにまっ黒な瞳が光っていた。すべての輪郭があんまり鮮明なためになんとなく慣れ親しみがたい感じがして、すこしうけ口な愛くるしいくちびるさえが海の底の冷たい珊瑚をきざんだかのように思われたが、その口もとが気もちよくひきあがってきれいな歯があらわれたときに、すずしいほほえみがいっさいを和らげ、白い頰に血の色がさして、彫像はそのままひとりの美しい人になった。