関川夏央「スキーヤーの後姿」

 彼女はスキーを始めたのである。下の子をスキー場に連れて行ったついでに、二十五年ぶりに自分もやってみた。
 転びもするが、結構すべれる。スキー教室のグループの脇にたたずんで先生の話を盗み聞いた。いうとおりに試してみたら、スキー板をそろえたままでくるっとまわった。
「なんておもしろいんだろうと思ったの。するとリフトから見あげる空も不思議にきれいに見えるわけよ。灰色の空から無数の雪が降ってくる。あんなに暗くて、あんなに美しい風景はないわ」
 昼間の勤めをときどき休んで、ひとりでスキー場に出掛けるようになった。
 派手なウェアなんだろうな、というと、当たり前よ、とこたえた。
「四十すぎたら、人生なにごともハデによ」
 その底にかすかな悲哀の痕跡を沁みこませた顔を雪焼けさせると、なんともいえない味が出る。つまりは、これがオトナの女というやつだろう。
 北国にももうじき桜が咲く。日ごと週ごとに山奥へ山奥へと雪を追いかけつづけたが、今年の冬もとうとう果てた。
「スキーはできなくなるけど、花もきれいよ。どっちに転んでも損はしない、いまはそういう気分」
 わたしには見えるようだ。雪煙を巻きあげて谷へくだる、あざやかな彼女の後姿が。わたしの脚などではとてもついて行けない、中年女性のそのすばらしい速さが。