須賀敦子「舗石を敷いた道」

 ローマでも、ナポリでも、舗石を敷いた道があるのは旧都心で、それもほんの一部にしか残っていない。なつかしい、と書きはしても、じっさいは、とくに女の靴にとっては、かなり歩きにくいものでもある。私のイタリア暮らしの発端となった五〇年代の終りごろいっせいに流行った、細く尖ったヒールでそのうえを歩いて、先端が石と石の隙間に刺さったりして、あぶない思いをしたことだってあるし、いまでも、日本から行ってどういうものか三日ほど経つと、足の裏になにか傷でも隠れているみたいに、一歩あるくごとに、刺すような痛みが靴底に走る。にもかかわらずやはり舗石の道が恋しいのは、ああいった道が伝えてくる、しっかりとした抵抗感のせいではないだろうか。その証拠、というのもすこし変だけれど、路面に足が慣れて痛さを忘れるのとほぼおなじ時期に、私という人間ぜんたい、からだぜんたいが、ヨーロッパの国で生きるときの感覚をとりもどしている。それはまた、こちらから意志を表明しないことには、だれも自分の欲しいものを察してなんかくれない土地柄に向って立つ力のようなものであるかもしれない。もっとも、その裏側には、東京の満員電車でみんなといっしょに藻のように揺れているのではなく、自分がはっきりしないことにはだれも助けてくれないのだという、あの個であることの心細さが、意識の底に、あの舗石の色とおなじどす黒さで澱んでいるのではあるけれど。