ゴンブローヴィッチ『フェルディドゥルケ』(米川和夫 訳)

 火曜日、夜はもうまったくのところ終わってしまったのに、すっかり明けきるにはまだ間(ま)があるという、例のまるで人けのないぼんやりした時刻に、目をさました。不意に目がさめると、すぐに停車場までタクシーをとばそうと考えた。なにしろ、旅に出るのだという気がしたからだ。――一分ほどしてから、やっと、おれのためには、停車場に汽車はとまっておらず、どんな時も告げられはしなかったのだと、じつになさけない気持で思い知った。濁った明かりのうちに横たわったまま、おれの体は、がまんのならぬほど恐れおののき、その恐怖のせいでおれの心をおしつけ、心は心でまた体をおしつけ、そのため、もっともこまかな筋という筋までが期待にふるえて痙攣した。なにも起こりはしない。なにも変わりはしない。けっしてなにもやって来はしない。なにを企てたところで、なにも、なんにも始まりはしない。これは不在の恐れ、存在しないという恐怖、生きていないことの不安、現実でないことの危惧、内部の分裂、拡散、消失にたいするおれの全細胞の生物的な叫びだった。けちくさい零細卑小さのおじけたあまり声にでる呻き、解体のパニック、一部分を背景にした恐慌、自分のうちにひそんだ暴力と外からおびやかしてくる暴力とをまえにした恐怖――だが、それよりもなによりもいちばん重要なことは、内部の部分部分のあいだでとりかわされる揶揄嘲弄、つまり、おれの体の放埓無拘束な部分部分と、また、おれの心のそれに照応するアナロジックな部分部分の内面的な嘲りあいからくる一種特別な感じ、そうとでも呼ぶよりは仕方のないようななにかが、いつもいつも一歩も離れず、おれにつきまとって来ていたことだ。