ホメロス『イリアス』(松平千秋 訳)

 クリュセスは捕われの娘の身柄を引き取るべく、莫大な身の代(しろ)を携え、手に持つ黄金の笏杖(しゃくじょう)の尖(さき)には遠矢の神アポロンの聖なる標(しるし)、羊の毛を結んで、船脚速き軍船の並ぶアカイア勢の陣営に現われ、アカイア軍の全員、わけても軍を統率するアトレウス家の二兄弟に歎願していうには、
「アトレウス家の御兄弟ならびに脛当(すねあて)美々しきアカイア勢の方々よ、どうかあなた方が見事プリアモスの城を攻め落し、恙(つつが)なく故国にお帰りなされることを、オリュンポスに住まいます神々がお許し下さるように。わたしの娘はしかし、どうかゼウスの御子、遠矢のアポロンの神威を憚って、身の代と引き換えに自由の身にしてやっていただきたい。」