アントニー・バージェス『時計じかけのオレンジ』

 「お願いです、何かやらせて下さい。お靴を綺麗にしましょうか? ほら、嘗めてさし上げます」。そして、兄弟よ、驚くなかれ、俺はひざまずいて赤いベロを一マイル半つき出して奴のキタなくてクサいブーツを嘗めたのだった。なのに奴はといえば俺の口に軽く蹴りを入れるだけ。それでこれならくるぶしをギュッとつかんでこのキタない野郎を引きずり下ろしたって吐き気や痛みは襲ってくるまいと思ってそうしたら、相手は不意をつかれてドサッと倒れてクサい見物人どもはゲラゲラ笑って。だけど奴が床に倒れてるのを見たら俺は体じゅうすごく気持ち悪くなってきて、それで早く立たせてやろうと手を貸したら奴はすっと立ち上がった。それから本格的なパンチをいまにも俺の顔面に浴びせるかというところでブロドスキー博士が言った――
 「よろしい、もう結構」。そしたらこの嫌(や)な野郎はちょこんとお辞儀して役者みたいにぴょんぴょん跳ねて退場し、まぶしい明かりがパッと俺を照らして俺の口からはいまにも悲鳴が飛び出しそうだった。ブロドスキー博士は観客に言った。「ごらんの通り被験者は、悪に駆り立てられることを通して、逆に善へと駆り立てられるのです。暴力的な行動を為そうとするたびに、強い肉体的不快感が訪れるのです。この不快感を打ち消すためには、正反対の態度に転換するほかありません。何かご質問は?」
 「選択の自由」。深々と豊かな声が響いた。見れば刑務所の教戒師(チャーリー)だ。「この若者には選択の自由がないのでしょう? 私欲、肉体的苦痛の恐怖、そのせいであんなにグロテスクに自分を卑しめているのです。それが誠意と無縁のものであることは明らかでした。たしかに彼は非行をやめるでしょう。そしてもう、道徳的選択を行いうる存在でもなくなるでしょう」