志賀直哉『小僧の神様』

     九


 Aの一種の淋しい変な感じは日と共に跡方(あとかた)なく消えて了った。然し、彼は神田のその店の前を通る事は妙に気がさして出来なくなった。のみならず、その鮨屋にも自分から出掛ける気はしなくなった。
「丁度よう御座んすわ。自家(うち)へ取り寄せれば、皆(みんな)もお相伴出来て」と細君は笑った。
 するとAは笑いもせずに、
「俺のような気の小さい人間は全く軽々しくそんな事をするものじゃあ、ないよ」と云った。



     十


 仙吉には「あの客」が益々忘れられないものになって行った。それが人間か超自然のものか、今は殆ど問題にならなかった、只無闇とありがたかった。彼は鮨屋の主人夫婦に再三云われたに拘らず再び其処へ御馳走になりに行く気はしなかった。そう附け上る事は恐ろしかった。
 彼は悲しい時、苦しい時に必ず「あの客」を想った。それは想うだけで或慰めになった。彼は何時(いつ)かは又「あの客」が思わぬ恵みを持って自分の前に現れて来る事を信じていた。


 作者は此処で筆を擱く事にする。実は小僧が「あの客」の本体を確めたい要求から、番頭に番地と名前を教えて貰って其処を尋ねて行く事を書こうと思った。小僧は其処へ行って見た。ところが、その番地には人の住いがなくて、小さい稲荷の祠があった。小僧はびっくりした。――とこう云う風に書こうと思った。然しそう書く事は小僧に対し少し惨酷な気がして来た。それ故作者は前の所で擱筆する事にした。