大岡昇平『野火』

「[……]実はな、今まで誰にもいわなかったがね、俺は女中の子なんだ」
「うるせえな。それがどうしたんだ。珍らしくもねえ」
「そうか知ら、でも俺はまだ誰も女中の子だって奴に会ったことがねえが」
「誰もお前みたいに自慢しやしねえさ、映画や小説にはあらな」
「うん『瞼の母』ってのを見たが、俺あいやになっちゃってね」
「なんだってお前、今頃不意にそんなこといい出したんだ」
「何故ってないが、ただちょっとね。いっておきたくなったのさ……阿母(おっかぁ)は追ん出されたんだそうだ。俺はなんにも知らずおやじの家にいたが、俺がぐれ出したら、お袋がそれをいやがった」
「ふーん、何でぐれたんだ」
「何でもねえさ、友達と喫茶店へ行ったり映画を見たり……パチンコやったりしてね」
「おやじの商売はなんだ」
「かじ屋さ。深川白河町の交番の傍だ――そいでかっとなって俺あ家を飛び出しちゃった。それから知り合いの喫茶店のバーテンになったり、コックになったり……」
「ふーん、結構じゃねえか。男一匹一人で食って行けりゃ、女中の子でもなんでも差し支えねえわけだ」
「でも阿母に会いたくってな」
「阿母はどうした」
「暫く千葉の田舎へ帰っていたが、松戸でかたづいてる先をおやじにきいたから、訪ねて行った」
「…………」
「そしたら、何故、そんな勘当同然の身体(からだ)で、あたしの家へ来たか、っていやがった。そこんちは傘屋で、丁度亭主は留守だったが、どうしてあの人お前にあたしの家を教えたんだろうって、大変な権幕よ」
「よくある話だ。なんだってそんなこと、今頃いい出したんだ」
「俺はかあっとなって、そこを飛び出しちゃって」
「よく飛び出す野郎だ。じゃ、そいでいいじゃねえか」
「その帰りに公園で『瞼の母』を見たが、途中で俺あいやあになっちゃってね。見ていられなかったよ」
「泣いたのか」
「泣くどこじゃねえよ。いやあになっちゃってね。飛び出しちゃったよ」
暫く沈黙が続いた。やがて安田がいった。
「じゃ、今度は俺の話をしてやろうか」
「え、おっさんも女中の子か」
「馬鹿やろ。俺じゃねえ、俺が生ませた子だ」
「…………」