内田百ケン『東京日記』

 外には大粒の雨が降っていて、辺りは薄暗かったけれど、風がちっともないので、ぼやぼやと温かった。
 まだそれ程の時刻でもないと思うのに、段段空が暗くなって、方方の建物の窓から洩れる燈りが、きらきらし出した。
 雨がひどく降っているのだけれど、何となく落ちて来る滴に締まりがない様で、雨傘を敲く手応えもせず、裾に散りかかる滴はすぐに霧になって、そこいらを煙らせている様に思われた。
 辺りが次第にかぶさって来るのに、お壕の水は少しも暗くならず、向う岸の石垣の根もとまで一ぱいに白光りを湛えて、水面に降って来る雨の滴を受けていたが、大きな雨の粒が落ち込んでも、ささくれ立ちもせず、油が油を吸い取る様に静まり返っていると思う内に、何だか足許がふらふらするような気持になった。
 安全地帯に立っている人人が、ざわざわして、みんなお壕の方を向いている。白光りのする水が大きな一つの塊りになって、少しずつ、あっちこっちに揺れ出した。ゆっくりと、空が傾いたり直ったりするのかと思われる位にゆさりゆさり動いているので、揺れている水面を見つめていると、こっちの身体が前にのめりそうであった。
 急に辺りが暗くなって、向う岸の石垣の松の枝が見分けられなくなった。水の揺れ方が段段ひどくなって、沖の方から差して来た水嵩は、電車通の道端へ上がりそうになったが、それでも格別浪立ちもせず、引く時は又音もなく向うの方へ辷る様に傾いて行った。
 水の塊りがあっちへ行ったり、こっちへ寄せたりしている内に、段段揺れ方がひどくなると思っていると、到頭水先が電車道に溢れ出した。往来に乗った水が、まだもとのお壕へ帰らぬ内に、丁度交叉点寄りの水門のある近くの石垣の隅になったところから、牛の胴体よりもっと大きな鰻が上がって来て、ぬるぬると電車線路を数寄屋橋の方へ伝い出した。