佐藤春夫『田園の憂鬱』

その丘はどこか女の脇腹の感じに似ていた。のんびりとした感情を持ってうねっている優雅な、思い思いの方向へ走っている無数の曲線が、せり上って、せり持ちになってでき上った一つの立体形であった。そうして、あの緑色の額縁のなかへきちんと収まって、たとえば、最も放胆に開展しながらも、発端と大団円とがしっくりと照応できる物語のように、その景色は美しくも、少しの無理もなく、その上にせせっこましくなしにまとまっていた。それはどこかに古代ギリシャの彫刻にあるといわれている沈静な、しかもいきいきとした美をゆったりとたたえていた。それはけ高い愛嬌のある微笑をもった女の口の端(はた)にも似ていた。丘の頂には雑木林があって、その木はいずれも手の指を空に向けてあけたように枝を張っていて、彼の立っている場所から一寸か五寸ぐらいに見える――ある時には一寸ぐらいに、そうしてある時には五寸ぐらいに感じられて見える。短い頭髪のようにそろうて立っている林は、裸の丘を額にしてそれの頂だけに、美しい生え際をして生えて見える。それらの林と空とが接する境目にはごく微細な凹凸があって、それが味わい尽くせないリズムを持っている。それの少しばかり不足しているかと思えるところには、その林の主(あるじ)である家の草屋根が一つ、それの単調を補うている。そうして、その豊かにもち上がった緑のビロードのような横腹には、数百本の縦の筋が、互いに規則的な距離をへだてて、平行に、その丘の斜面の表面を、上から下の方へ弓形にすべりおりて、くっきりとした大名縞(だいみょうじま)を描き出していた。それは緑色の縞瑪瑙(しまめのう)の切断面である。それは多分、杉か檜か何かの苗床であるからであろう。だがそんなことはどうでもいい。唯、この丘をかくまでに絵画的に、装飾ふうに見せているのには、この自然のなかの些細な人工性が、期せずして、それのために最も著しい効果を添え与えているのであった。ちょうど林のなかに家の屋根が見えていると同じように。そうして、この場合どこからどこまでが自然そのままのもので、どこが人間の造ったものであるかは、もう区別できないことである。