夏目漱石『それから』

「門野さん。僕はちょっと職業を探して来る」というや否や、鳥打帽を被って、傘も指さずに日盛りの表へ飛び出した。
 代助は暑い中を馳(か)けないばかりに、急ぎ足に歩いた。日は代助の頭の上から真直(まっすぐ)に射下(いおろ)した。乾いた埃が、火の粉のように彼の素足を包んだ。彼はじりじりと焦(こげ)る心持がした。
「焦る焦る」と歩きながら口の内でいった。
 飯田橋へ来て電車に乗った。電車は真直に走り出した。代助は車のなかで、
「ああ動く。世の中が動く」と傍(はた)の人に聞えるようにいった。彼の頭は電車の速力を以て回転し出した。回転するに従って火のように焙(ほて)って来た。これで半日乗り続けたら焼き尽す事が出来るだろうと思った。
 忽ち赤い郵便筒(づつ)が眼に付いた。するとその赤い色が忽ち代助の頭の中に飛び込んで、くるくると回転し始めた。傘屋の看板に、赤い蝙蝠傘を四つ重ねて高く釣るしてあった。傘の色が、また代助の頭に飛び込んで、くるくると渦を捲いた。四つ角に、大きい真赤な風船玉を売ってるものがあった。電車が急に角を曲るとき、風船玉は追懸(おっかけ)て来て、代助の頭に飛び付いた。小包郵便を載せた赤い車がはっと電車と摺れ違うとき、また代助の頭の中に吸い込まれた。烟草屋(タバコや)の暖簾が赤かった。売出しの旗も赤かった。電柱が赤かった。赤ペンキの看板がそれから、それへと続いた。しまいには世の中が真赤になった。そうして、代助の頭を中心としてくるりくるりと燄(ほのお)の息を吹いて回転した。代助は自分の頭が焼け尽きるまで電車に乗って行こうと決心した。