尾崎一雄『虫のいろいろ』

 八畳の南側は縁で、その西はずれに便所がある。男便所の窓が西に向って開かれ、用を足しながら、梅の木の間を通して、富士山を大きく眺めることが出来る。ある朝、その窓の二枚の硝子戸の間に、一匹の蜘蛛が閉じ込められているのを発見した。昨夜のうちに、私か誰かが戸を開けたのだろう。一枚の硝子にへばりついていた蜘蛛は、二枚の硝子板が重なることによって、幽閉されたのだ。足から足三寸ほどの、八畳にいるのと同種類の奴だった。硝子と硝子の間には彼の身体を圧迫せぬだけの余裕があっても、重なった戸のワクは彼の脱出を許すべき空隙を持たない。
  (中略)
 用便のたび眺める富士は、天候と時刻とによって身じまいをいろいろにする。晴れた日中のその姿は平凡だ。真夜中、冴え渡る月光の下に、鈍く音なく白く光る富士、未だ星の光りが残る空に、頂近くはバラ色、胴体は暗紫色にかがやく暁方の富士――そういう富士山の肩を斜めに踏んまえた形で、蜘蛛は凝っとしているのだ。彼はいつも凝っとしていた。幽閉を見つけ出したその時から、彼のあがきを一度も見たことはなかった。私が、根気負けの気味で「こら」と指先で硝子を弾くと、彼は、仕方ない、と云った調子で、僅かに身じろぎをする、それだけだった。