大岡昇平『俘虜記』

 まず私は自分のヒューマニティにおどろいた。私は敵をにくんではいなかったが、しかしスタンダールの一人物がいうように「自分の生命がその手にある以上、その人を殺す権利がある。」と思っていた。したがって戦場では望まずとも私を殺しうる無辜の人にたいし、容赦なく私の暴力を用いるつもりであった。この決定的な瞬間に、私が目の前に現われた敵を射つまいとは、夢にも思っていなかった。
 このとき私に「殺されるよりは殺す」というシニスムを放棄させたのが、私がすでに自分の生命の存続に希望を持っていなかったということにあるのは確かである。明らかに「殺されるよりは」という前提は私が確実に死ぬならば成立しない。
 しかしこの無意識に私のうちに進行した論理は「殺さない」という道徳を積極的に説明しない。「死ぬから殺さない」という判断は「殺されるよりは殺す」という命題に支えられて、意味を持つにすぎず、それ自身少しも必然性がない。「自分が死ぬ」からみちびかれる道徳は「殺しても殺さなくてもいい」であり、かならずしも「殺さない」とはならない。
 かくして私は先の「殺されるよりは殺す」という命題を検討して、そこに「避けうるならば殺さない」という道徳がふくまれていることを発見した。だから私は「殺されるよりは」という前提がくつがえったとき、すぐ「殺さない」を選んだのである。このモスカ伯爵のマキァベリスムは、私が考えていたほどシニックではなかった。
 こうして私は改めて「殺さず」という絶対的要請にぶつからざるを得ない。
 私はここに人類愛のごとき観念的愛情を仮定する必要を感じない。その広さにくらべて私の精神は狭すぎ、その薄さから見れば私の心臓は温かすぎるのを私は知っている。
 むしろこのとき人間の血にたいする嫌悪をともなった私の感覚にてらして見れば、私はここに一種の動物的な反応しか見いだすことはできない。「他人を殺したくない」というわれわれの嫌悪は、おそらく「自分が殺されたくない」という願望の倒錯したものにほかならない。これはたとえば、自分が他人を殺すと想像して感じる嫌悪と、他人が他人を殺すと想像して感じる嫌悪が、ひとしいのを見ても明らかである。このさい自分が手をくだすという因子は、かならずしも決定的ではない。
 しかしこの嫌悪は人間動物のその同類にたいする反応の一つであってその全部ではない。この嫌悪が優位を占めたのは、一定の集団のなかではわれわれの生存が他人を殺さずにたもたれるようになった結果である。「殺すなかれ」は人類の最初の立法とともに現われたが、それは各人の生存がその集団にとって有用だからである。集団の利害の衝突する戦場では、今日あらゆる宗教も殺すことを許している。
 要するにこの嫌悪は平和時の感覚であり、私がこのときすでに兵士でなかったことを示す。それは私がこのときひとりだったからである。戦争とは集団をもってする暴力行為であり、各人の行為は集団の意識によって制約され鼓舞される。もしこのとき、僚友が一人でもとなりにいたら、私は私自身の生命のいかんにかかわらず、猶予なく射っていたろう。