柳田国男『雪国の春』

花の林を逍遥して花を持つ心待ち、又は微風に面して落花の行方を思うような境涯は、昨日も今日も一つ調子の、長閑な春の日の久しく続く国に住む人だけには、十分に感じ得られた。夢の蝴蝶の面白い想像が、奇抜な哲学を裏付けた如く、嵐も雲も無い昼の日影の中に坐して、何をしようかと思うような寂寞が、いつと無く所謂春愁の詩となった。女性に在っては之を春怨とも名づけて居たが、必ずしも単純な人恋しさではなかった。又近代人のアンニュイのように、余裕の乏しい苦悶でもなかった。獣などならば只睡り去って、飽満以上の平和を占有する時であるが、人には計算があって生涯の短かさを忘れる暇が無い為に、寧ろ好い日好い時刻の余りにかたまって、浪費せられることを惜まねばならなかったのである。乃ちその幸福な不調和を紛らすべく、色色の春の遊戯が企てられ、芸術は次第に其間から起った。