徳田秋声『風呂桶』

 津島は猛烈に打った。彼女がいつも頭脳(あたま)を痛がるのは、自分の拳のためだと意識しながら、打たずにはいられなかった。近頃の彼に取っては、それはおかしいほど荒れた。そして人々に遮(ささ)えられたところで、床の間にあった日本刀を持出して、抜きかけようとさえした。本統にそんな事のできる自分だとは思えなかった。子供じみた脅嚇(おどかし)に過ぎないのを愧じていたけれど、そんな事を遣りかねない野獣性が、どこかに潜んでいるようにも思えた。彼はそんな時、幼少の折犬に咬まれて、その犬を殺すために、長い槍を提げて飛出して行った老父の姿を思い出したりするのであった。ずっと年を取って、体の起居の自由が利かなくなってから、まるで駄々ッ児のように、煙管を振りあげて母を打とうとした父の可笑しな表情も目についていた。母はとぼ(←りっしんべん+「兄」)けた手つきで踊りのような身振りをして、却って父を笑わせてしまった。
 さく子はしかし剽軽な女ではあったけれど、決して踊りはしなかった。蒼くなって反抗するのであった。
 夕方になってから、津島は大工が張って行った、湯殿の板敷を鍬で叩きこわしていた。
 津島がやはり湯殿を利用した方が得だと思って、妻と一緒に風呂桶を買いに行ったのは、それから半月もたってからであった。そして其の翌日風呂桶が届けられて、急拵えの煙突なしで、石炭が焚かれた。
 津島は久しぶりで、内湯へ入ることができたが、周囲が小汚いので、気持は余りよくなかった。それに広々とした湯殿へ入りつけていたので、そうやって風呂桶のなかへ入っているのが窮屈であった。
「この桶は幾年保(も)つだろう。」彼はいつもの癖でそんなことを考えた。
「おれが死ぬまでに、この桶一つで好いだろうか。」と、そうも思って見た。
 すると其が段々自分の棺桶のような気がして来るのであった。