正宗白鳥『何処へ』

両手で頭を抱いて目を瞑った。すると帰宅の途中と同じい雑念が湧き上って留め度がない。天井には鼠が暴れまわって、時々チュッチュッと鳴声がする。一家四人はすやすやと眠っているが、毎夜その寝息を聞くぐらい彼れに取って厭な気のすることはない。人中へ出てる時には心が動揺して紛れているが、独り黙然と静かな部屋に坐っていると、心が自分の一身の上に凝り固まって、その日常の行為の下らないこと、将来の頼むに足らぬこと、仮面を脱いだ自己がまざまざと浮び、終(しまい)には自分の肉体までも醜く浅間しく思われて溜らなくなる。その時こんな下らない人間を手頼りにしている家族の寝息が忍びやかに聞えると、急に憐れに心細く、果ては萎(しお)れてしまう。
 健次は昨夜と同じ考えを経験し、心細くなって萎れて、遂にぶっ倒れて、睡る気ではなくても自然に眠ってしまう。
 雨滴(あまだれ)は同じ音を繰返し、鼠も倦みもせずに騒いでいる。