アンドレ・ブルトン『ナジャ』(巖谷國士 訳)

「僕はといえば、人が褒めそやそうとしているあの隷従というものを、全力できらっているんです。隷従を強いられて、たいがいはそこからのがれられずにいる人間というものを、あわれだと感じはしますが、でも、僕が人間の味方につこうと思うのは、労働のきびしさのためなんかではなく、抗議のはげしさのため、まさにそのためでしかありえないでしょう。そうです、たしかに、工場の炉のそばでも、毎日何秒かおきにおなじ動作のくりかえしを強制するあの冷酷な機械のどれかの前でも、およそ受けいれがたい命令にしたがうほかのどんな場所でも、独房のなかでも、銃殺刑執行隊の前でも、自分を自由だと感じることはできます。でもその自由をつくりだすのは、人の耐えている受難そのものじゃありません。自由とは永遠につづく解放のことです、そうあってほしいものです。とにかくそんな解放が可能であるためには、たえず可能であるためには、あなたのいうあの人たちの多くがそうなっているように、鎖にひしがれてしまってはいけません。でも自由というのはまた、そしてこのほうがたぶん人間にとって大事なことですが、ある程度は長いけれどもすばらしい歩みの連続としてあるもので、それを解きはなつことが人間にはできます。そんな歩みを、あの人たちがつくりだせると思いますか? 第一、その暇だけでもありますか? そんな気概がありますか? まじめな人たちだって、あなたはいっていましたね。そう、戦争で殺されていった人たちのようにまじめで、勇敢なわけですね? 簡単にいえば、英雄です。たくさんの不幸者と、いくらかのあわれな馬鹿者のことです。僕にとっては、はっきりいって、あの歩みこそがすべてです。あの歩みがどこへ行くのか、そこに本当の問題があります。そういう歩みの連続がとうとう一本の道を描きだして、その道の上に、そこまでたどってこられなかった人たちを解放する手段、それともそんな人たちが解放されるのを助ける手段があらわれてこないはずはないと、そういってもいいでしょう? そうなってはじめて、歩みをすこし遅くしたほうがいいということになるはずです。といって、あともどりするわけではないけれども。」(とくにこの点について具体的に論じる気になりさえすれば、私に何をいえるかはよくおわかりだろう。)

   ※太字は出典では傍点