フィッツジェラルド「金持の御曹子」(野崎孝 訳)

 ある特定の個人を書こうと思って書き始めると、いつの間にか、一つのタイプを創り出していることに気がつくが、反対にあるタイプの人間像を描き出そうとすると、できあがったものは、無というか空というか、何一つ創り出されていないことに気がつく。
 それはおそらく、われわれみんなが、実は見かけよりも異様な存在で、外にさらしている顔つきや口ぶりの陰には、誰にも知られたくないほど異様なもの――いや、自分では気がついていない異常性さえも持っているからではないか。自分のことを「正直であけっぴろげな普通の人間です」と言う人に会うたびにわたしは、これは自分に、何かはっきり異常だと認めざるを得ないところがあって、それがおそらくひどい変り方なもんだから、それで隠すことにしているのに違いない――正直であけっぴろげな普通の人間だとわざわざ自分から言うのは、そういうやり方で、彼なりに自分の異常性を自認しているのだとわたしは思う。
 タイプなどというものはないのである。複数は存在しないのだ。