福沢諭吉『新訂 福翁自伝』

私が江戸に来たその翌年、すなわち安政六年、五国条約というものが発布になったので、横浜は正(まさ)しく開けたばかりのところ、ソコデ私は横浜に見物に行った。その時の横浜というものは、外国人がチラホラ来ているだけで、掘立小屋みたような家が諸方にチョイ/\出来て、外国人が其処に住まって店を出している。其処へ行ってみたところが、一寸(ちょい)とも言葉が通じない。此方(こっち)の言うこともわからなければ、彼方(あっち)の言うことも勿論わからない。店の看板も読めなければ、ビンの貼紙もわからぬ。何を見ても私の知っている文字というものはない。英語だか仏語だか一向わからない。