ハンナ・アーレント『精神の生活』(佐藤和夫 訳)

やったことはとんでもないことだが、犯人(今、法廷にいる、すくなくともかってはきわめて有能であった人物)はまったくのありふれた俗物で、悪魔のようなところもなければ巨大な怪物のようでもなかった。彼にはしっかりしたイデオロギー的確信があるとか、特別の悪の動機があるといった兆候はなかった。過去の行動及び警察による予備尋問と本審の過程でのふるまいを通じて唯一推察できた際立った特質といえば、まったく消極的な性格のものだった。愚鈍だというのではなく、何も考えていないということなのである。

   *犯人 アイヒマン。元ナチス親衛隊中佐でユダヤ人虐殺の実行責任者。