『孟子』(小林勝人 訳注)

人皆人に忍びざるの心有りと謂う所以の者は、今、人乍(にわか)に孺子(じゅし)の将に井(いど)に入(お)ちんとするを見れば、皆怵テキ惻隠(じゅってきそくいん:「テキ」は“りっしんべん+易”)の心有り、交(まじわり)を孺子の父母に内(むす)ばんとする所以にも非ず、誉(ほまれ)を郷党(きょうとう)朋友に要(もと)むる所以にも非ず、其の声(な)を悪(にく)みて然るにも非ざるなり。


誰にでもこのあわれみの心はあるものだとどうして分るのかといえば、その理由(わけ)はこうだ。たとえば、ヨチヨチ歩く幼な子が今にも井戸に落ちこみそうなのを見かければ、誰しも思わず知らずハッとしてかけつけて助けようとする。これは可愛想だ、助けてやろうとの一念からとっさにすることで、もちろん助けたことを縁故にその子の親と近づきになろうとか、村人や友達からほめてもらおうとかのためではなく、また、見殺しにしたら非難されるからと恐れてのためでもない。