寺山修司『地平線のパロール』

 本来ならば、家語、村語、町語といったものと、世界語といったもののあいだにあって、国語も言語の一形態であることにとどまるべきであったが、いつのまにかあらゆる表現が国家を配給元として用いられるようになってしまった。そのために「二人語」とか「共同体語」といったものが雨風にさらされているのだ。それがたとえ国家そのものを否定してかかる論文でさえも、国語で書かれねばならないという矛盾が、私たちの前に立ちふさがっている。