泉鏡花「外科室」

 三秒(セコンド)にして渠(かれ)が手術は、ハヤその佳境に進みつつ、刀(メス)骨に達すと覚しき時、
 「あ。」と深刻なる声を絞りて、二十日以来寝返りさへも得せずと聞きたる、夫人は俄然(がぜん)器械の如く、その半身を跳起(はねお)きつつ、刀取れる高峰が右手(めて)の腕(かいな)に両手を確(しか)と取縋(とりすが)りぬ。
 「痛みますか。」
 「否(いいえ)、貴下(あなた)だから、貴下だから。」
 かく言懸けて伯爵夫人は、がつくりと仰向きつつ、凄冷(せいれい)極りなき最後の眼(まなこ)に、国手(こくしゅ)をぢつと瞻(みまも)りて、
 「でも、貴下は、貴下は、私(わたくし)を知りますまい!」
 いふ時晩(おそ)し、高峰が手にせる刀(メス)に片手を添へて、乳(ち)の下深く搔切(かきき)りぬ。医学士は真蒼(まつさお)になりて戦(おのの)きつつ、
 「忘れません。」
 その声、その呼吸(いき)、その姿、その声、その呼吸、その姿。伯爵夫人は嬉しげに、いとあどけなき微笑(えみ)を含みて高峰の手より手をはなし、ばつたり、枕に伏すとぞ見えし、唇の色変りたり。
 その時の二人が状(さま)、あたかも二人の身辺には、天なく、地なく、社会なく、全く人なきが如くなりし。