清岡卓行「思い出してはいけない」

ぼくはどうにも 自分の
名前が思い出せないのだった。
そんなに遠い夢の中の廃墟。
そのほとりには
傷ついた動物の形をした森があり
ぼくは日かげを求めて坐り
きみは日なたを好んで坐った。
きみを見たときから始った
ぼくの孤独に
世界は はげしく
破片ばかりを投げ込もうとしていた。
そのとき ふと吹き抜けて行った
競馬場の砂のように埃っぽく
見知らぬ犯罪のように生臭い
季節はずれの春。
それともそれは 秋であったか?
風に運ばれながらぼくの心は歌っていた
――もう 愛してしまった と。


  それは今日までつづいている
  きみもどうやら 自分の
  名前が思い出せないのだ。