夏目漱石「小説『エイルヰン』の批評」

 著者の考と評者の考とは必ず一致するものではない。評論其物が精確であれば、著者は之に対して郢書燕説(えいしょえんせつ)の不平を持込むべき次第のものではない。鳴雪や子規が頻りに蕪村の句を評して居るが、銘々区々である。時としては何れも蕪村の意を得て居らぬかも知れぬ。然し批評さへ面白ければ、解釈が二通あらうとも三通あらうとも構はない。若し蕪村が不承知なら、自分の句にして文字は同じいが意味は違ひます、と済して居ればよい。漱石の批評も固より著者と相談したのでないから、当つて居るか当つて居らぬかは保証しない。但し批評其物が諸先生の俳句に於る如くうまく行かないから余り威張れない。娓々(びび)数百言終(つい)に是一場の啽囈(かんげい)に過ぎない。著者も飛だものに捕つて定めし迷惑だらう。著者へは気の毒だが子規と虚子へは申訳が立つ。