夏目漱石「小説『エイルヰン』の批評」

情も変遷するに違ひない。然し理と手を携へて並行に進むものではない。太古結縄(けつじょう)の民と汽車汽船に乗る吾々とは、理に於て非常な差があるかも知れぬが、情より論ずれば夫程の差はあるまい。近い例が十四五年前に言文一致の議論が大分盛(さかん)な事があつたが、議論許りで真面目に試みた者は余りなかつた。尤も中には「発矢(はっし)! 空蝉の命御覧なさい嚙まれて居る乱髪の末一二本」と云ふ様なるが出はしたが、其位で余り世間に流行はしなかつた様だ。是は理論上言文一致に反対しない者でも、感情の上から在来の習慣を破るのが何となく厭で有たのだらうと思ふ。然るに当時の理論が、昨今に至つて漸く感情と融和したものと見えて、近頃では言文一致と出掛ても余り攻撃者も無い様だし、亦随分此文体を用うる人もある様だ。是が即ち感情が理に後れる一例である。人々別々の場合でも此通だと思ふ。我々世の中に幽霊はない者と承知はして居るが化物屋敷へ好んで住む人は容易にない。生死は意に介するに足らずと推論断定した処で地震の時には一番早く逃出度(にげだしたく)なる。心の欲する所に従つて規矩を脱せんと云ふのは聖人の事で、理情がひたと合した難有(ありがたい)境界である。我々凡夫の理と、凡夫の情は常に鉢合せをして居る。鉢合せをしない迄が、同様の速力で進行しては居ない。理は馬の如く先へ行き、情は牛の如く鞭(むちうて)ども動かない。